相武電鉄資料館

相模原(旧市域)の寺院・小堂

橋本地域

名称 所在地 備考
香福寺 緑区橋本5-39  
(支院) 常慶庵(跡) 緑区西橋本(西ハケ下)付近 廃寺
(支院) 延寿堂(跡) 廃寺
瑞光寺 緑区元橋本町(西裏)6  
蓮乗院 緑区東橋本3-12  
華蔵院 緑区相原(八幡西)6-19  
正泉寺 緑区相原(八幡前)6-6  

香福寺


山号 橋本山
寺号 香福寺
宗派 臨済宗→臨済宗建長寺派
本尊 地蔵菩薩
開山 藏海性珍
本寺 巨福山建長寺【鎌倉市】




 本尊である地蔵菩薩は運慶作と伝えられています。
 寛永年間の間に一時廃れましたが、矢島左近某が中興開基として再び同寺を盛り立てました。



常慶庵(跡)

写真:地名標柱:常慶くぼ
寺号 常慶庵
開基 常慶
本寺 橋本山香福寺【橋本】




 常慶という僧が香福寺の支院として庵を結んだことがはじまりとなります。
 現在は廃寺となり、地名としてその名が残るのみとなります。



延寿堂(跡)


寺号 延寿堂
本寺 橋本山香福寺【橋本】




 病を患った僧の静養の地として建立されたと云われています。



瑞光寺

写真:瑞光寺山門
山号 橋本山
寺号 瑞光寺
開山 聖山大祝
開基 瑞光月心
宗派 曹洞宗
本尊 釈迦如来
本寺 龍雲山高乗院【八王子市初沢町】




 開基である瑞光月心は出家前、勘十郎を名乗り武州下相原村(現・町田市相原町)の人であったといわれています。
 昔は百観音を納めた観音堂や筑波山麓の桑寺より鑑賞した蚕影山権現などか鎮座していたようですが、現存はしていません。
 
 明治期に入ると、現在の小学生にあたる年代の子どもに教授の場として使用され「本哲学舎」が置かれました。
 この「本哲学舎」が後の旭小学校となります。



蓮乗院


創建 天文3年(1534年)
山号 天縛山
院号 蓮乗院
寺号 無量寺
開山 長尊
宗派 新義真言宗→真言宗智山派
本尊 不動明王
本寺 智積院【京都市東山区】




 清兵衛新田の開墾の際には、江川代官所の役人が宿舎として用いられました。
 境内には新田開墾に携わった原 清兵衛の墓所もあります。

 明治時代には、現在の小学生にあたる年代の子どもに教授の場として使用され「養鱗学舎」が置かれました。
 この「養鱗学舎」が、後に近隣にあった他の学者と合併し、現在の旭小学校となります。



華蔵院

写真:華蔵院山門
山号 兒松山
院号 華蔵院
寺号 慈眼寺
宗派 新義真言宗→真言宗智山派
本尊 阿弥陀如来
開山 秀慶
本寺 高尾山薬王院【八王子市高尾】




 開山後、度々衰退しましたが5世住職 源清(天保10年)、9世住職 秀源(貞享4年)、22世住職 栄津(嘉永2年)らが、その都度中興として寺堂の再建を果たしました。
 華蔵院は相原八幡宮の別当であったことから、神仏融合の影響が残り、 貞享元年(1684年)の銘が残る『牛頭明王座像懸仏』や寛政10年(1798年)の『八幡宮再建遷宮棟札』などか残されています。

 年末には『御釜締め』として“歳神さま”や“荒神さま”などの御幣を檀家に配布しています。

 境内には『国定忠治の力石』といって、江戸時代の侠客 国定 忠治が軽々と持ち上げたという一抱えのもある大石が安置されています。



正泉寺


山号 龍源山
寺号 正泉寺
宗派 曹洞宗
本尊 虚空蔵菩薩
開山 洲山洞蓋
開基 吉川下総守
本寺 功雲寺【根小屋】




 天正19年(1591年)、開基である吉川家が主家である毛利家と自家の先祖供養のため、屋敷内に堂宇を建立し慶蔵主という僧を招いて、澗林山昌泉寺を開きました。
 慶長3年(1953年)に改めて功雲寺の9世 洲山洞蓋住職を招いて、龍源山正泉寺としました。



〔 参考文献 〕
  • 相武史料刊行会 (1926)『新編 相模風土記:淘綾郡 大住郡 愛甲郡 高座郡 津久井郡』
  • 相模原市教育委員会 編 (1984) 『地名調査報告書』
  • 相模原市教育委員会 編 (1995) 『平成さがみはら風土記稿ー寺院編』
  • 橋本の歴史を知る会 編 (2018) 『橋本の歴史 ガイドブック(改訂版)』
  •  
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